プロフェッショナルの世界
対談 西村 淳×石出和博
南極料理人西村 淳

海から見た南極。白い氷河がそびえる

南極での生活で痛感した、「食べる」ことの大切さ。
食が人をつなぎ、笑顔にする。

一度目は昭和基地。二度目は標高3800メートルにして、平均気温マイナス57℃。あらゆるものが凍りつく、南極の奥地のドームふじ観測拠点。過酷な、閉ざされた環境で総勢9人の南極観測隊員のためにそれぞれ1年間、調理をし続けた南極料理人・西村淳氏に、食べること、そして住まいについてお話をうかがいました。

平均気温マイナス57℃すべてが凍るなか、冷凍野菜と少量の栽培葉もので過ごす

西村さんはそもそも、南極へはどういう経緯で行かれたのでしょうか。

HOPコンセプトハウスのキッチンで食談義に花を咲かせる西村氏とHOP石出代表

西村 私は、海上保安官として巡視船で主計を担当していました。任務は事務と調理。その経験を活かして、観測隊の食をまかなう仕事をしてくれと。まあ、こいつなら、極地へ送り込んでも大丈夫、と思われたのでしょうね、きっと(笑)。

南極へ持って行った食料は、1年間の滞在期間で1人当たり約1トン。これに同じだけの予備が付きます。第30次観測隊員として滞在した昭和基地の時は、生のジャガイモやタマネギがありましたが、第38次の時は、野菜もほぼ100%が冷凍ものでした。

それはなぜですか。

西村 大きく二つの理由からです。一つは、ジャガイモでもニンジンでも皮が出ます。これを日本に持って帰る手だてがない。南極の奥地には絶対にゴミ収集車はやって来ないですから(笑)。

キッチンで思案する西村さん

将来的な回収を考えて、GPSで場所が特定できるようにはしていますが、現状は氷原に置きっぱなし。だから、野菜くずなどを減らしたいということがありました。

石出 なるほどゴミを減らすと。家づくりの過程でも、大量の廃棄物やゴミが出ていましたが、私たちは自社工場の生産化率を高めることで廃棄物等を効率よく削減する取り組みを続けています。木材加工の段階で出る端材はバイオマス燃料のペレットにするなどして資源のムダをなくしています。

野菜も冷凍品を使うもう一つの理由とは?

西村 第38次観測隊員として過ごしたドームふじ観測拠点(ドーム基地)は、昭和基地から1000キロも離れた内陸部で、しかも富士山より高い標高3800メートルの場所。平均気温マイナス57℃、最低気温はマイナス80℃近くまで下がります。あらゆるものが凍結するので、生ものはあきらめました。

隊員たちのため心を込めて食事の準備

もっとも、レタス、貝割れ、もやしなどは少量ですが人工太陽灯を使った「野菜製造機」で育てていましたが。

石出 ここ、HOP新コンセプトハウスにも、特殊なLEDを使ったハーブガーデンをキッチンに設置しているんですよ。こうしたものが、将来的には各家庭にあってもいいと思って。南極でも、役に立つのではないでしょうか。

西村 コンパクトだし有効だと思いますね。

帝国ホテルの村上信夫シェフから、クラシックフレンチのセオリーを学び南極での料理に応用

最初の著書「面白南極料理人」にはさまざまなメニューが載っています。
料理はどこかで勉強をされたのですか?

生地からの本格的なパンづくり

西村 冷凍野菜の調理法について元帝国ホテル顧問の村上信夫シェフにご協力いただいた時、クラシックフレンチのセオリーを指導してもらったことがとても役に立ちました。ただ、それ以外はテレビや本、居酒屋で作り方を聞いたり……。

石出 そういえば、私たちのお客さまにも第37次の南極観測隊に参加したドクターがいまして、その方も料理がとてもお上手なんですよ。

西村 本当に偶然ですが、私もその方ならよく知っています。ドーム基地で交代する時に、すばらしい料理で歓迎してくれて。今でも大の仲良しなんですよ。

石出 南極に出かける間際に土地を決められたのですが、それが45度の傾斜地。どの建築会社にも断られたものの「どうしても、ここに建てたい」という強い気持ちに共感して設計に取り組んだ記憶があります。でも、まさか西村さんのお知り合いだとは。不思議な縁を感じますね。

南極での、調理以外のご担当は?

マイナス80℃近くにもなる過酷な世界

西村 雪上車のメンテナンス、通信関連、観測の手伝いなども必要に応じてやっていました。ドーム基地で越冬したのは私を含めて9人。このうち4人は研究者で、私たちは医療、機械、通信など、生活を支える設営隊員です。

1000キロ以内には何もない、湿度2%の氷の世界。白い砂漠ともいえる過酷な場所で、9人のおじさんたちが〝計算された遭難〟をしているような状況です。設営隊員はそこで快適に、安全に過ごせるために環境を整えるのが任務なのです。

極地研究の、いわば裏方ですね。

西村 研究者は、めったには来られない南極という場所での研究に没頭します。24時間、本当に命がけで取り組んでいる毎日のなか、夕食の時間は魂が戻ってくるというか、ホッとして自分に還れる場なわけです。趣向を変え、好みを考えながらいろいろなメニューを食卓に並べたのは、その大切な瞬間を豊かに過ごして欲しいという思いからです。

ホッとくつろぎ、食卓を囲む隊員たち

石出 住まいを考える時も、食の空間というのは大きな意味を持ちます。どのようなキッチンが必要かは、ご家庭のライフスタイルで変わってきますし、ダイニングは家族の語らいの場として、ゲストをお招きするスペースとして、やはりさまざまなスタイルが考えられます。食卓を囲むということは、生活するうえでとても大きな意味をもっていますね。

西村 私が南極で痛感したのは、余裕と笑いの大切さなんです。大きな災害があり、防災への関心が高まっていますが、大変な状況のなかでも心に余裕を持つこと。言葉は悪いですが、少しへらへらしているくらいの人の方が環境の変化にも柔軟に対応できる。南極ではそうでした。

そして笑い。南極でいつも笑いがあったのは食事の時間でした。調理をしつつ、楽しく話しながら食べられるひと時づくりということをいつも考えていました。

笑顔がこぼれる食卓は木の家、自然のものを使った住まいでこそ生まれる

講演などでも、食についてのお話を積極的にされていますね。

西村 私はよく「ごはんにしよう」というテーマで話をします。これは、神さまがつくってくれた、とてもすてきな言葉。夫婦でも、恋人同士でも、友だちでも、気持ちにズレが起きているな、しっくりいかないなという時は、相手の好きなものをつくって「ごはんにしよう」といってください。そうすれば、大抵の問題は片付いてしまう、そんな話です。そして食べながらたくさん話をしましょうと。

そういう時こそ食卓を囲もうと。

西村 そうそう。そこで、住まいというものが大切になってくるんです。南極観測で生活や研究を行うのはパネルを組み立てたプレハブの建物で、マイナス70℃以下にも耐える性能を備えています。その主要なパネルの材料には、ふんだんに木が使われているんですよ。断熱材も細かく砕いた木を用いた材料です。寒い極地ながら、やさしい木の香りを感じながら暮らすことができた。だからこそ食事の時間に笑いがこぼれたのだと思っています。

キッチンに設置されたハーブガーデンの前で

石出 HOPの家も天然の木、国産材を多用していますが、ひどいアトピーに悩んでいたような方も、心地よいと思える住まい、好きな家に住むようになると劇的に症状がよくなったりするんですよ。

西村 こんなにすばらしいモデルハウスがあるのだから、料理などを出して食の楽しさを共有できるような場づくりをしてみるのも、おもしろいと思いますね。

石出 なるほど。検討してみたいと思います。本日はお忙しいところ、ありがとうございました。


プロフィール 西村 淳 JUN NISHIMURA 

1952年北海道留萌市生まれ。
海上保安庁在任中に第30次(1989年)、第38次(19997年)の南極観測隊員に選ばれる。2度目となる第38次隊では、地球上最も苛酷といわれる平均気温マイナス57℃(当時)の「ドームふじ観測拠点」で越冬した。
帰国後、その毎日を綴った爆笑エッセー『面白南極料理人』(春風社。のち新潮文庫)を執筆するとともに、舞鶴海上保安学校で、練習船「みうら」教官として若き海猿たちを指導。また、講演会、料理講習会、TV・ラジオなどで活躍し、2009年に海上保安庁を辞職。食を通してのさまざまなコミュニケーションを考える「オーロラキッチン」(札幌市)を設立。

西村氏は、調理担当として2回、南極観測隊に参加し、現代文明とは対極にある地でそれぞれ1年間を過ごした経験から、環境ということについて、強い意識を持っている。限られた人しか訪れない場所だけに、南極はいわば手つかずの自然のままだ。そこで生活し、食べることによって、人の営みがいかに自然に負荷をかけるものなのか、いやがおうにも痛感させられる。食材のゴミを減らし、水は最後まで使い回す。燃料も無駄遣いはしない。そう聞けば単純なことのようだが、一つひとつの取り組みと意識がいかに大切かを、食に関する思いとともに多くの人に伝えている。
HOPでは早くから、環境にやさしい家をテーマにしてきた。森林の保護とともに、CO2排出量の削減に向けた取り組みとしての国産材の使用と、それらを生かすための技術開発、伝統工法の応用。室内環境を整える自然素材の活用、そして省エネルギーの暖房・給湯システムの導入。その取り組みが結晶したHOP新モデルハウスにはソーラー発電、雨水利用システムなど先端の環境技術が盛り込まれている。
食と住まい、という関係の深いテーマに取り組む2人の話は熱を帯び、そこには大きな共感が生まれた。

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