第二回”森の教室”in法然院
パネルディスカッション
人はなぜ、森へむかうのか
CWニコル・梶田真章・石出和博・天野礼子

天野 先ほどニコルさんが、どうして「森仕事」をするようになったか、その動機についてお話しくださいました。このあとはパネルディスカッション「人はなぜ、森へむかうのか」を進めたいと思いますが、ディスカッションではなく、お一人ずつ「森にむかう」理由をお話しいただこうと思います。

それを聞かれて、会場の皆さま方一人ひとりが「森にむかう」ことを、ご自身の心に問いかけていただきたいと、今日は願っています。

それでは、まず梶田貫主からお願いいたします。

京都の、町のすぐそばにこんな森がある。
それを紹介するのが「森の教室」を始めたきっかけ

梶田 このお寺を預かった頃ですが、ここに来られる皆さんに「たいへんすばらしい場所にお住まいですね」と言っていただきました。はじめは、それを聞いて喜んでいただけですが、いや待てよ、なんで皆さん同じことを言われるのだろうかと。考えてみますと、これは日本がちょっとおかしくなっているんじゃないかと思い当たったわけです。

このような場所は、ふつうにどこにでもあって、特別ではないのに。どこにでもあると思っていた場所が、すばらしいとは。

こんな疑問を持ったことが、「法然院森の教室」を1985年に始めたきっかけでした。その教室で何をやってきたかと申しますと、ここに、こんな森がある、ということを紹介する、それだけだったんですね。
さきほどニコルさんがお話しになっているとき、ムササビの嗚き声を聞かれましたか。ここには、ムササビもいますし、イノシシとかテンも棲んでいます。そんなことを京都の町の人にぜひ知っていただきたいな、ということで続けてまいりました。

ただ、それだけではなあ、という想いがありました。やはりこれからの日本を考えていこうとしますと、今から子どもたちにどんなことを教えていくかが大事なことです。それで、「森の教室」の運営をお任せしていた久山さんという方が中心になりまして、「森の子クラブ」というのを数年後に始めました。

「森の子クラブ」では一年間のプログラムを作って、月ごとに内容を決めてやっています。たとえば、滋賀県のほうに田んぽを借りまして、田植えをしたり、稲刈りをしたりというのもプログラムに入っています。一年間を通して子どもたちに、昔の日本人だったらふつうに知っていたようなことを、あらためて知っていただこうと、こういうふうな活動を始めたわけです。

役に立っていないように見えて役に立っている。
この感覚を取り戻すことが日本人には大事

よく自然という言葉をなにげなく使いますが、私は「命のいとなみ」という意味だと思っています。自然といいますと、この森、この山の姿のことだと思っておられるかもしれません。そうではなくて、この山にいろんな命のいとなみがあって、お互いが命を支えられあって、こういう姿になっていると。それを私は「自然」と呼びたいと思っています。

仕組みとしての自然は、時にはわれわれに迷惑を掛けるということもあります。先ほどここにイノシシが棲んでいるといいましたが、ときどき姿を現して、庭の苔をめくったりします。この頃は、下の「森のセンター」のところまで行って、イタズラをするわけです。われわれとは仲がいいような悪いような具合ですが。
そういう自然がある、だから法然院に来られた方が「ここが安らぐ」と感じていただけるのだと、そう思っているわけです。

大体、お寺に来られる方は、庭の紅業が色づいてきれいだとか、あるいは何か花が咲いてきれいだとか、庭にあるもの自体を愛でに来られるわけです。でも、そんなことは二番目のことで、大事なことは、森がある、そのことですがすがしい気持ちになる、そういうことだと思うのです。

簡単に言いますと「無用の用」ということです。役に立っていないようですけど、実は、われわれが役に立っていないと思っているものが、役に立っこの感覚を、日本人が本当にどれだけ取り戻すことができるか。そういうことを、この二十年間くらいずっと訴え続けてきたつもりなんです。

放って置いてはいけないとようやく気ついて森に手を入れはじめた

でも、すでに森がありましたので、私自身は「森仕事」って、ほんと何もしてこなかったなあ、という反省をしながらニコルさんのお話を聞いていました。

今日のテーマも、ただ緑があったらいいわけではなくて、本当に元気な森というのは何なのか、というものでしょう。そういうことも、まあ、ずーっと考えてはいたんですが、でも実際はこのようにお話しをするだけで、「やる」ということに結びついてこなかったところがあります。

でも昨年から、この森をもっと元気にしたいと、少し行動を起こしはじめています。いまは、シイやカシの木が優勢になっていて、常緑の広葉樹林という森になってしまっているのですが、昔の東山は、みんながたきぎに使うために、柴刈りなどに入った山ですので、今より木がまばらで、明るかったのです。

それが第二次世界大戦後、われわれも石炭とか石油に頼るようになって、山に柴刈りに入るということもなくなり、まあ放って置いた結果、このような暗い森になってしまったんですね。

ようやく間伐が大事だということに気が付きまして、一昨年ころから間伐をやろうという気運になってきました。ちょうど京都の行政も、周りの山をただ放っておいてはいけない、みんなで元気にしなければ、ということを考え始め、昨年から京都府自体がそういう事業予算を組みまして、ウチの山の一部も手を入れることができました。

今年も引き続き、秋から冬にかけて、間伐っていいますか、優勢になりすぎているシイの木を少し伐って、落葉広葉樹の森にしようかなあと、進めつつあるところです。今まさに、「私の森仕事」が始まったばかりで、いままでは理屈ばかりで、実践が伴わなかったというのが私の反省です。

まあそれも、いつも言うのですが、時代というものと人の気持ちが、すーっとそういう方向になってきた、これが「縁」だと思うんですね。

ニコルさんから20年くらい遅れているわけですけれども、京都の周りでこういうことも始まっているということをお伝えしておきます。

人間を含むすべての生き物が元気に暮らしていける。
そんな願いを持った方、それが阿弥陀佛です

ニコルさんは先ほどから、うしろの佛さんにお尻を向けていることを気にしておられました。今日はせっかく皆さんが見えてくださっているので、初めての方もいらっしゃいますし、この佛さんの日本語もぜひお教えしておきたいと思います。

阿弥陀佛の「アミダ」というのは、サンスクリット語の「アミタ」をそのまま写しただけです。「ミタ」はメーター、仏語のメートルも日本語になっていますが、同じ「計る」という意味です。その上に「ア」が付きますと、サンスクリト語では否定を表しまして「アミタ」で「計り知れない」という意味になります。

つまり、「限りない命の」というのが阿弥陀佛の「アミダ」という言葉で、限りない命に支えられて、私たちこうして座らせていただいているわけで、別にここにいらっしゃろうが、そちらにいらしゃろうが、阿弥陀佛はどこにでもいらっしゃるんです。

要するに、それぞれの生き物がそれなりに生きていけるように、そういう願いを持って、あそこに阿弥陀佛は座っていると、私はそう思っています。

だから私なりに考えますと、現代の「祈り」というのは、ただこう手を合わして、あの方にお願いしますと言っているだけじゃなくて、むしろあの方の願いを私の願いとするということではないでしょうか。つまり、すべての生き物がお互いに支え合いながら、しかも殺し合いながらですね、食べませんと生活できませんから。支え合いながら殺し合いながら、でもそれぞれの種の存続といいますか、元気にそれぞれは暮らしていけるような、そんな願いを持った方に支えられて、私もその願いの一部を実践していきますっていう気持ちが大事なんじゃないかと思っています。

私も20年くらい遅れてしまいましたけれども、今から「森仕事」をやっていく、そのことは、非常に大事なことなんじゃないかなあと、今日あらためて思いました。

天野 どうもありがとうございました。それでは北海道の芦別ご出身の石出さんにお話しをしていただきます。

石出 みなさん、こんばんは。
「第2回HOP”森の教室in法然院にようこそお越しくださいました。

私は北海道で、人工林間伐材を使って建築をしています。少しずつ全国へも展開していますが、昨年、京都に支社を出しました。

北海道の人が、なんで京都に支社をつくるのか、とよく聞かれます。私のところでは、お茶室の建築は北海道でいちばん多く手がけていると思いますが、京都で学び、奈良で学び、そして古建築を学んで北海道に文化を持ち帰っていたというわけです。ですから、支社を出すなら京都で出そう、京都で学ばしていただこうと願っていました。

北海道にはスギとかヒノキがありませんから、それも北海道に持っていこうと。また、小さな金物だとかクギだとか、そういう手作りのものがないのです、北海道には。すべて機械でつくったようなものばかり。こちらでそういうものを探すのですが、支社があったら都合がいいのにと思っいました。

私、北海道ではけっこう有名なんです(笑)。有名というのは、一生懸命まじめに建築をやっておりますし、「ハウスドクター」というのを雑誌で連載したり、ラジオでもやってますし、NHK文化教室の「住まい塾」を頼まれたり。田舎ではちょっと活躍しているのです。

それを天野さんが見ておられて、本に紹介していただきました。そして、京都に支社を出すんだったら「森の教室」をやったらという提案をいただきました。

昨年の第一回目には、裏千家の第十六代家元に、ボランティアでお越しいただきました。

昨年は、緊張して緊張して、何を話したかわかりません。しかし、今年もっと緊張しているのは、ニコルさんの前で森のお話しをしていいんだろうか、という気持ちからです。

間伐しなければ山は死ぬ。そこに大雨が降ると山崩れを起こす

間伐を待つ人工林の森(高知)

この春初めて、ニコルさんにお会いした時、わたしのやっていることを一生懸命にお話ししました。ニコルさんは「キミ、いいよ。キミのやっていることはなかなかいいよ」って認めてくださいました。先ほど久しぶりにお会いしましたら「仲間だから」と言ってくださいました。感激しています。

日本の山は、70%近くが森林だと言われていますが、山に入っていきますと、そのほとんどが人工林です。そして戦前戦後植えられたそういう山が、いまはもう瀕死の重傷です。本州に来ますと、私は花粉症で困るんです。スギは北海道にはありません。大量の花粉を飛ばす、これも人工林のスギが悲嗚を上げているのでしょうね。もうとにかく、びっしり植えられています。

私は、中学高校と、アルバイトでカラマツの植林をしました。皆さんが座っておられるくらいの間隔で苗を植えていきます。そして、15年目と20年目に間伐をします。
「いい木」だけを残すわけです。

いい木が使われている時代は問題がありませんでした。間伐した細い木も、昔は足場丸太とか、いろんなものに使われました。今は建築基準法の関係で丸太を足場に使うことはできません。そんなわけで、間伐されなくなりました。山に人が入らなくなって、40年も、50年も放置されています。あと10年放置されますと、ヒョロっとした木は、台風が来ると全部倒れていくでしょう。山は死んでいきますね。

私は10年ほど前まで、「山が死ぬ」という言菓の意味が分かりませんでした。木の枝や葉がびっしりと覆っていますから、山の土に光が当たりません。そこに草や広業樹が生えないんですね。そうしますと、土が死んで、赤茶けた地肌がむき出しの山になってしまいます。これが山が死ぬということです。こういう山が、全国いたるところにあります。

台風が来て、大雨が降りますと山崩れですね。皆さん、山崩れを起こした山をよく気をつけて見てください、全部といっていいほど、人工林の山です。そこに手を加えないとなりません。

手を加えないってことは破壊なんだと、先ほどニコルさんがお話しになられました。いまも破壊が続いています。

人工林を間伐して使ってあげる。そうすれば山は、森はよみがえる

そんなことが分かって、私は人工林間伐材を使って家を造ることを、10年前から始めました。

森を残しながら、人工林を残しながら、その木を使っていこうと考えました。どういうことかっていいますと、植えられた木は何10年かたっと大きくなります。でも、競争に勝った木は大きくなりますが、負けた木は小さいんですね。そこで私は、「大きくなった木から先に使ってあげよう」と考えました。

大きな木を間伐すれば、残した小さな木が大きく生長すると。それを営林署の方に一生懸命言ってきました。

当時は相手にされませんでしたが、いまは、聞いてもらえるようになってきました。

木の直径が20cmになりますと、105mm角の柱がとれます。木は約30年で20cmの太さに成長します。いま、植林してほぼ40年たっています。従来のやり方は、そこで細い木を間伐して、太い木を残そうとします。でも、残した木が50cmになったときに、その木が高く売れるのでしょうか、売れないんですね。

日本では今まで、大きな木を大切にしてきました。たとえば、四方無節のスギ、ヒノキ。こういう木をとるために何度も間伐をして、成長を助けていくというのが日本の林業の考え方です。山は全部そういう考えで手を人れてきました。そうやって手をかけて大きく育てたときに、その木を買う人がいなくなってしまっていました。大きな木が売れるのは、ほんの一部の恵まれた地域だけです。それが国産材の現状です。ですから、今はもう誰も山に手をつけないという状態ですね。

しかし、30cmになったものか先に使っていきますと、日本の人工林間伐材だけで、国内の住宅建築の構造材はすべてまかなえるんです。そういうシステムを、北海道で一生懸命作ってきて、いま二つの工場が芦別と留辺蘂(るべしべ)にあります。北海道では、森林の70%が国有林です。それを少しずつ買いまして、太いのから伐って使っていくというやり方でやっています。

細い木を使う知恵。それが京都で始まった数寄屋造り

いま、私は全国で年間約120棟の家をオペレーションしています。主に北海道の木を使ってきましたが、昨年から、京都の北山杉や四国のヒノキ、そういったものを使い始めました。

京都には、「細い木を使う」という文化が古くからあります。そして、京都には、建築をはじめ、あらゆる日本の文化があります。私は、もっともっと原都の文化を全国に発信したいと考えています。

京都の北山杉にしても、奈良の吉野杉にしても、あれは日本人が作った、すばらしい間伐の技術なんですね。15cmとか、20cmに育った段階で、日本中に床柱を出しているのは北山杉と吉野杉だけなんです。そういう技術が代々引き継がれているんですね。

京都で始まりました数寄屋造り、茶室建築は、そういう「細い木を活かそう」という運動だったと思うんです。寺社仏閣、武家屋敷というのは大変大きい木を使いました。そういうものを使った後に生えた小さい木をどうやって使うか。京都の人たちは、それを数寄屋造りとして活かしていったわけです。それを可能にしたのは、京都の地に合った間伐の技法なんです 。

いま全国に植えられた人工林を、どうやって活かすかということが、私の使命だと思っています。そのために、ハウジングオペレーションは「森をたてようネットワーク」をNPO法人にいたしました。そうして、全国に私たちの技術を、考え方を伝えていきたいのです。

いま、北山のほうからも、私のところに相談に見えています。山をどう経営すればよいかという相談ですね。

一緒に山に行きました。山に入っていきますと、山肌は赤茶けていて、木が自然に倒れて、そのままになっていました。私は、使える木だけをまず出していきましょうと。木を使っていくことで、山は再生していくのです。

私は全国で、そういう運動をやろうと思っているのですが、いままで山で生活をしてきた人たち、また建染関係の人は、そういう木を使おうとしないんです。

また、ある町で成功したら、隣の町でも、自分の町でも、同じことをまねてやろうとするんですね。どんどんそうなっていって、挙げ句の果てに共倒れです。ですから、「この町では木を出す、あなたの町では製材をする」、そんな不ットワークを作ることが重要だと思っています。

外国材は安い、国産材は高い、という誤解が日本の森を暗くしている

そういう山の木をどうやって使うんだと。

柱にして使える木材は、建築基準法で105mm角以上です。10センチちょっとですね。これは樹齢20年、30年の木で使えます。もちろん、乾燥技術とかは必要ですけど、技術的にはなんの問題もありません。

今では大きい木材は、京都でも八割は外国から来た材料です。京都に来て、もっとスギを使っているかと思いましたが、全部米マツを使っていますね。スギの樹齢30年のものでも、集成材にすればいいのです。集成材を作る工場をちゃんと造れば、ほとんどの木は活かせますよ。
それでも、外国材より約一割くらい高くなります。

ご存じないと思いますが、日本の木材の価格は外国の木材の価格によって決められているのです。10〜15%くらい高く決められています。為替は変動しますから、国産材の価格も変わるんです。でも、一軒の家を建てる、それに掛かる価格の中で、木材の費用は大体10%くらいなんです。二千万円の家なら二百万円、三千万円の家なら三百万円です。だから、木材の価格が一割高くっても、総額では1%しか高くなりません、二千万円とか、三十万円です。これで国産材が使えるのです。住宅メーカーが宜伝広告費や営業費を30%も40%もかけなければ、木材分の1%は吸収できるんです。

平均築25年で建て替えられている日本の家。
永く住み続けられる家を造ることが大事。

日本の木を使うことによって、日本の山を再生していきたいと思っています。それはどういうことかと言いますと、世界中の木を買いあさるのをやめようっていうことなんです。
中国の木も買いあさって、結果、北海道でも黄砂が降り始めました。北京から北の方は日本人が木を買いあさって、丸裸。いまはもっと北、ロシアの永久凍土地帯の木を買って、持ってきているのです。いま、日本が使っている木は、全部そういう木です。それをやめようってことです。

バブル時代、日本では年間180万戸の住宅が造られました。アメリカでは去年、バブルということもあって、造られた家は170万戸でした。日本は人口ではアメリカの三分の一です。ということは、日本のほうがたくさん家を造っているということになります。今でも、年間120万戸の家が造られています。でも、まだ足りないと。どうしてでしょう。
それは、平均築25年くらいで建て替えなければならないような家を建てているからです。これをやめて、50年から70年持つような家を造るようにしなければなりません。
しかし、去年からこちらでだいぶ家を造らせていただいておりますが、木を大事に使っている大工さんが本当にいるか、といったら、私にはまだまだ伝統にあぐらをかいたところが多いんじゃないかと見えるんです。

ちょっと生意気なことを申しますが、もっともっと頑張れば、京都独自の世界に誇る木の文化を、日本中に広めていくことができるはずだと信じています。

森を再生する。そのことが川をよくすることにつながる

天野 私は「森から見える日本の再生」という章を、昨年出版しましたこの「市民事業」(中公新書ラクレ)という本の最初に書き、そのなかに、日本の森を再生しようとする建築家として石出さんを紹介しました。
では、他にどんな人が頑張っているかといいますと、たとえば、FSCという森林認証を日本で最初にとった三重県の速水林業さん。そして、森の再生は道づくりからということで、高知県の大正町で、森への負荷が小さい作業道を造っている方。木質エネルギーでエコ発電をしている岡山県の銘建工業さん。ここでは、木の皮や枝を使って発電し、自分の工場で使う電気はすべてまかなっておられます。

それから、木のクズなどをペレットにして、それを燃料にするペレットストーブやボイラーを開発した岩手の葛巻林業さん。また、高知では、木材の乾燥に木のクズや皮を使っている池川木材さん。

実は、木材の乾燥に化石燃料の重油を使っているのは、森林国では日本だけなんです。日本はまったく恥ずかしいことをやっています。

私は、京都生まれの、京都育ちです。大学1年のときに釣りにのめり込みまして、それから年間100日くらいずーっと釣りにいってました。26歳の頃、ニコルさんの年上の友人でもあった、今は亡き作家の開高健さんに弟子人りをしました。以来、主に川のことを書いてきましたが、30代の半ば頃、日本の真ん中にある長良川にダムができるという計画が出されました。

私はその川が、日本の最後の自然河川だということを、日本中の人々に伝えようと思い、開高さんに話をして、長良川河口堰の反対運動の会長を引き受けていただきました。

それから、川により深く関わるようになりましたが、一昨年から、川のことだけでなく、森についても発言するようになっています。なぜかと言いますと、田中康夫さんの「脱ダム宜言」によって、川のことはたくさんの人がもう分かってくれて、発言する人もいっばい出てきたからです。それで、川のことを私が言うのはもういいだろうと思ったことと、本当に川を取り戻そうと思ったら「森の再生だ」と考えたからなんです。

川は森と海をつなぐ「仲人」その川を元気にするため「グリーン同盟」を提案

ちょうどその頃、ニコルさんからひとつのことを教えていただきました。カナダのビクトリア大学のトム・ライヘン教授の研究を見てごらんと。

その研究で分かったことは、サケは産卵のために川に戻ってきていますが、それだけではなく森に栄養を運んでいたんだということでした。
クマは川をあがってきたサケを捕って、他のクマに横取りされないように、森に持って帰って食べます。食べるのは、栄養の多いところだけです。あとは森に放って置いて、次のサケを捕りに行きます。

その食べ残しが、森の栄養になっていたということが、20世紀の最後にやっと、一人の科学者によって証明されたのです。

日本では、1990年から、牡蠣の養殖漁師さんたちがフランスのロアール川に学んで、「森は海の恋人」というキーワードで、海の栄養は森から来るのだと発表しまして、森に木を植えに行きだしました。
トライアングルを組んで「グリーン同盟」を作りましょう、というのが近年、私が提案していることです。

ここにおられる皆さんも、この「グリーン同盟」に賛同していただけると信じて、このようなお話しをさせていただきました。

それではここで、テーマを進めたいと思います。21世紀へのそれぞれの提言というテーマで、ニコルさんにお話しいただきます。

大事なのは海の栄養。そして、「多様性」の意味を知ること。

ニコル まず、先ほど天野さんが話してくれた、サケが森へ連んだ海の栄養のこと。日本人には想像がつかないでしょうが、海の栄養がないと病気になります。エチオピアで見たんですが、首が曲がったりするんですね。森もそうですが、昆虫でもすべて海の栄養がないと危ないですね。ユーコン川では、サケは海から3000km上流まで溯って、栄養を運んでくるのです。日本では縄文時代から、山に住んでいる人でも、海の干し魚や川を溯ってきた魚や千しアワビだとかを食べています。だけど、海の栄養を意識していないんですね。もちろんクマもそうですけど。

アファンの森にて

クマ以外に、サケを利用する動物は全部で137種類もいるそうです、カナダでは。でも、日本の自然はもっと複雑だと思います。

海の栄養のことが、なぜ分かるかといいますと、海にしかない窒素の元素が、トム・ライムヘン教授が採取した木の年輪から見つかったからです。それは、N-15゜窒索15、安定元素です。安定しているから、クマのウンチになっても、骨になっても、木の年輪になっても変わらないわけです。サケとクマによって、木の年輪にN-15が人っているわけです。

海の栄養をもらった木々の太さは、そうでない木の二倍から二倍半。病気も少ないですし。この元素、目に見えないものですね。目に見えないものがいかに大事かと思います。まさに多様性ですね。英語でdiversity。
人の社会でも多様性は大事ですが、生物の多様性もものすごく大事です。森も同じです。

森はいろんな木々もあれば、いろんな花もある。いろんなクスリも作ってくれています。お互いを手伝っているのです。

目に見えないもののひとつに、キノコの糸があります。元気な森にはキノコが出ますが、その細い糸と木の細い根っこがつながって、栄養交換をしているのです。キノコは木から糖分をもらって、木はキノコからある種のミネラルをもらっているのです。こんなすばらしい「生きる曼陀羅」が、いくらでも、いくらでもあるのです。まだまだ人間に見つかっていないことはいっばいあると意識してください。

森だけじゃなくて、森と川と海、そして人間の心は全部「生きている」んです。生きているといつことは、やっぱり「アミダ」、計り知れないわけです。

言いたいことはいっぱいあるのですが、もう森の話をすることに飽きてしまいました。なぜなら、いつも当たり前のことしかしゃべる時間がないからです。

石出さんは、大きくなった木を伐るといいます。でも、彼は単純にそう思っているわけではないのです。

われわれは、いつも気をつけていなければいけません。石出さんがしゃべった話を、マスコミが適当に切り刻んで、彼が「大きい木を全部伐れと言った」と書く記者もいますから。でも、彼はそうは言っていませんね。

天野 石出さんは先日、カナディアンワールドというところに植林をされました。ニコルさんに教えられたことで始めようと思った、と聞きましたけど、どういうことでしょうか。

炭鉱の跡地につくられたカナディアンワールド。
悲しい歴史の地に植樹をしようと決意

カナディアンワールド全景

石出 北海道の芦別は、有名な富良野の隣にある町です。芦別は、戦前戦後を通じて炭鉱の町でした。小学校の教科害に載っていたと思いますが、三井、三菱、住友と、すべての本州企業がやってきました。北九州の有名な三池炭鉱より採掘量が多かったのですよ。もう、穴だらけです。

炭鉱が撤退しまして、その跡地にカナディアンワールドという「赤毛のアンの里」を作ったんです。理由はよく分かりませんけど、ディズニーランドを目指したそうです。

子どもたちも一緒に植樹

石炭を露天掘りした、その跡地に遊園地を作りました。ところが、すり鉢状ですから、行って帰ってきたら、くたびれてしまうようなところなんですね。150億円かけて造ったそのテーマパークは、10年で成り立ちゆかなくなりました。それから18年ほどたっていますが、今は市が管理する公園になっています。

でも、木が一本も生えていないのです、露天掘りの跡地ですから。私のふるさとですけど、まあ仕方がないなあ、と思っていました。そんな露天掘りの跡地がたくさんありまして、その一っを北海道一の産業廃棄物の処理場にしようとする計画が持ち上がりました。芦別が手を挙げたんですね。そんなことはまかりならんと、反対運動が立ち上がりました。結局、産廃処理場の計画はなくなりましたが。その、計画地というのが、カナディアンワールドの、山ひとつ越えたところでした。

そんな折にニコルさんに初めてお会いして、あのウェールズの「アファン森」の話をお伺いしました。そこもボタ山だったんですね。そこに町の人々が、バケッ一杯ずつ土を巡んで、木を植えていった話を聞いて感動しました。

本州の財閥企業がやってきて、石炭を掘り尽くして、撤退していった炭鉱の跡地って、寂しいんです。本当に何にもない。

木が生えない、カナディアンワールドの失敗は悲しい歴史を繰り返したと思いました。そこで、ニコルさんに触発されて、今年から木を植えようと、天野さんにも来ていただき、先週、植樹祭を開催しました。

「なんでそんなところに植えるんだ」ってよく聞かれました。だから、ニコルさんの本をいっばい買って、みんなにプレゼントしています「これ、読め」って。

多様な木が生えている森。そんな森を思い描いて木を植える

京都にまいりまして1年半ですが、京都の木を買おうと思って、材木屋さんを訪ね歩きました。でも、どこに行っても、スギとヒノキしかないのです。
北海道では、国有林がありますから、まだまだいろんな種類の木があります。ナラ、タモ、セン、ミズナラ、シナ、もちろんポプラとかシラカバもあります。

アファンの森にて。右側は松木さん。

私たちはポプラとかシラカバの製品も作っています。薄い板にして貼っていくのです。私の建てる家は、すべて塗り壁か板貼りです。間伐材は構造材で使用します。仕上げにきれいな木目だけを見せて、あとは、漆喰なり、珪藻土を塗って隠すようにしています。

ところが、こちらではスギかヒノキしか手に人りません。本来は、北海道より暖かいですから、ケヤキ、ミズナラなど、もっと成長の早い木が、山にはあるはずなんです。

ですから、スギを早く問伐して、いろんな木を植えたらいいと思います。放置されている人工林のスギやヒノキの山を伐りひらいて、間伐したところに広葉樹を植えるのです。それは、30後、40年後の子どもたちのため、いや国のためですよ。

スギとヒノキだけでは、今風の和洋折衷の家は造れないんです。たとえば、ドアにナラ材を使いたい、とお客さんがおっしゃっても京都では材料が手に入らないのです。

いろんな木が植えられ、適時に材として使い、山を元気にしてあげる。そんな森づくりが、私の目標です。

ニコル 石出さん、少し聞いていいですか。あの、トチノキってわりといい材でしょ。

石出 はい、いい材ですね。

一本一本の木が支えている森の恵み。
一本の木には計り知れない価値がある

ニコル 樹齢百年くらいのトチノキ一本から毎年ハチミツが石油缶ひとつ分とれるんですよ。これは今の市場価格で、いくらでしょうか。多分、15,000円くらい。ちょっと、はっきり分かりませんが。一本の木の花からとれるハチミツだけで、毎年これだけの収穫が得られるんです。

ほかにも、この木はたくさんの役に立っています。たとえば空中の炭酸ガスを酸素に変えるとか、葉っぱから出すある種の物質が、空気をきれいにするとか。さらに、土壌の浸食を防ぐとか、烏や虫や動物たちに棲み家や食物を提供したりも。

一方、この木を伐ってチップやパルブにしてしまったらどうなるでしょう。売値は一万円くらいでしょうか。伐らないでおけば、トチノキは樹齢百年くらいになると、まだあと少なくても百年は生きられるといいます。つまり、木を材として売る以上の価値を毎年ずっと与えてくれるわけです。

もちろん、木は伐る必要があります。慎重に間伐していくことは森の健康にとってどうしても必要です。ただ、伐るのは一本一本の木であって、山ではありません。森全体を伐ることでは決してありません。だから皆さん、石出さんの言う「伐って使う」というのを誤解しないで。

建具や家具の工場から出る端材を幼稚園に。
子どもたちの好奇心がやがて森にむかう

石出 北海道では、私のところで家を建てた人が集まって、年に一回子どもたちも一緒に、山に木を植えに行っています。それを、ずっと続けていまして、いままで一万本以上植えました。下草刈りも毎年やっています。子どもたちも楽しみにしているのですよ。

木を植えた経験のある子どもたちは、木に関心が深くなります。自分の植えた木はとくにそうで、周りの草や木についている虫も好きになるようですね。

また、建具や家具の工場からは端材がたくさん出ます。それをある程度の長さに切って、幼稚園に提供しています。金づちゃノコギリも一緒に持っていきまして、イスだとかいろんなものを作ってもらっています。危ないからやめてほしいという父兄の方もいましたが、木を植えに行った仲間の幼稚園でしたから、よしやろうと、挑戦したのですね。

端材が園児の手でステキなイスに(札幌・山鼻保育園)

木を切ったり、クギを打ったりすることなんか、ほとんどの子どもさんは初めての経験です。そうしているうちに子どもたちは分かってくるんですね。木を植えるという行為と、自分の家がそういう木によって作られているってことが。そのつながりが分かって自分が植えた木が、大きくなって家になるんだ、ということを発見したときの子どもたちの驚きというものは、すばらしいものがあると思います。

そういうことを今、体験しております。

天野 では梶田さん、先ほどのお話しの続きでも。

ふたたび野生生物の棲め豊かな森に戻す。
そのことが、今問われている。

梶田 お話しを聞いていて、大事なことは、近くで調達できるものは、近くで調達しようということですね。流通業の方には申し訳ないですが、こういう方向に行かない限り、エネルギー消費は減らないことは、たぶん間違いないでしょう。

それと、伐るべき木を伐らないで、残すべきものを残さなかった、という当たり前のことが森について分かってきたということです。私たち一人ひとりが、先駆的なことをなさっている人の話をよく聞いて、あとに続いて行ったらいかがでしょう。

私たちには、北海道や黒姫へ行って、石出さんやニコルさんと一緒に木を植えるということは、なかなか大変です。こちらでも裏の森で少しやり始めておりますので、もしボランテアなど興味ございましたらお申し込みください。

今年は各地でクマが出たと話題になっています。クマが出た、危ないから殺すという。大変残念なことです。ただ、クマを殺して終わり、ということはないわけで、クマが出てこなくてもいいような森をどうやってみんなで作っていくか、ということだと思います。

ここにはイノシシが出てきますが、なるべくイノシシが出てこないような森に、われわれが考えて戻していくということが、今問われていると思うのです。

天野 ニコルさん、クマのことで何か言いたいんじゃないですか。

森の手入れを怠ると山火事になったとき大きな被害がでる

ニコル 長野では、クマがトウモロコシを食べていますが、われわれの森に来る5、6頭のクマのフンにはトウモロコシは入っていません。

クマは、多分イノシシもそうだと思いますが、食べられるものは何か、それはどこにあるのか、ということをお母さんから学びます。黒姫のクマはプルーベリーを食べません。これは不思識でしょうがない。外国のクマはみんなプルーベリーを食べるんですけど。

長野では同じ畑に、同じトウモロコシを何十年と繰り返し植えています。これではクマたちはきっと、トウモロコシ畑を自分たちの餌場だと思っているのでしょう。そのうちに、どこかの家の裏庭に行きついたとしても不思議ではありません。

あと、森のことで、ちょっと言っておきたいのは、こういう古い建物、すばらしい文化財があるところでは、森の手入れが大事ですね。枯れた木や草、要するに乾いたものがたくさんあると山火事が大きくなるんです。風を起こして燃え広がります。カリフォルニアとかでものすごい山火事が起こるのもそうです。カナダでも、マツクイムシのようなものが木を殺して、その木が枯れて、大きな山火事になっています。

ここの森も、専門家に見ていただいて、そういう枯れた木など、伐るべきものを伐るほうが安全だと思います。温暖化も進んでいますからね。

梶田 昔の方が裏山にヒノキを植えてくださっているのです。それも、もう今、シイに押されて元気がないかもしれません。そのヒノキの横のシイは伐ったほうがいいかもしれない、そんなことを考えながらやっています。ニコルさん、今日は時間がないでしょうが、またウチの山も見てください。

行き詰まった森林行政。
でも、「緑の雇用」という名の予算がふたたび山に光を

天野 ニコルさんは基調講演の中で、あきらめずにやることが大切だとおっしゃっていました。実は、森林行政も近年はたいへん変化してきており、それを伝えるためにいろいろなところで書いています。数年前までは、林野庁に3兆8千億円の赤字がありました。そのうち2兆円を国民に負担してもらって、1兆8千億の赤字が残りました。それを減らすために、5千人態勢で行くと決めまして、リストラという名の「首切り」をしました。営林署を統廃合して、地域の森づくりをしているスタッフをやめさせ中央の官僚だけを残したのです。

私はこれでもう、日本の森はダメだと思いましたが、それを逆手にとった人がいました。和歌山県知事の木村良樹さんです。もと総務省の出身で、その古巣からひとつの情報をもらいました。それは、小泉首相が改革つまり「リストラ」の痛みをやわらげようということで、6カ月ほどの臨時雁用のお金を出す、ということでした。

どうも本当にやるらしいということで、彼は当時の三重県知事だった北川さんと相談して、その臨時扉用を「緑の扉用」にしようと考えました。そのお二人の呼びかけで、41道府県の知事が賛同して、翌年和歌山県には42億円の「緑の一雇用」という予算が付きました。

でも、この年はたった6カ月です。知事さんたちはまた、国に陳情しまして、翌年は95億円の予算が林野庁に付きました。そして昨年、知事たちは、全部の省庁で「緑の扉用」の予算を出してください、そもそも森林政策というものは国民全部で担うものでしょ、と言い始めています。

今や、「地球温暖化を防ぐ最大の決定打は、森に手を人れることなんだ」ということが、政府の政策にもなっているのです。

今年、各地を台風が襲いました。これは、温暖化がもたらす気候変動があって、それで集中的な豪雨が起こっていると、私は見ています。2002年のヨーロッパでも同じような集中豪雨があり、河川が氾濫しました。そのあと、EUの洪水調企委員会が出した結論は、もっと川を自由に流してやるべきだ、というものでした。川のそばにたくさんの遊水地を作る。そして、森林を大切にすることが最大の洪水対策であり、「洪水を水害にしない知恵」なんだ、ということを発表したのです。こんなふうに次第次第に、森の大切さというのは、川の大切さであり、そして海の大切さでもあるということが、近年ようやく分かってきたのです。

私たちもあきらめないで、身の回りでできることをひとつでもやるということが、一番重要なのではと、ますます思うようになってきています。森林政策も変わりはじめて、いい政策が出てきています。

ニコルさん、林野庁の役人も少しはよくなってきましたか。

ニコル もともと、いい人がほとんどなんです。でも、お金がないし、自分の言っていることは通らないし。でもなかには、タヌキじじいもいますね。
タヌキじじいはみんな森に帰そう(笑)

天野 ニコルさんがずっと言っていたことで、政府の政策になったことが、今年もう―つあります。

ニコルさんは環境省の役人に「日本はレンジャーが足りないよ」、森のことを知っている環境省の役人がいないじゃないか、と言ってきましたら、今年レンジャーを増やしますという政策が出されました。あきらめないでやっていると、少しずつ変わってきますね。それでは石出さん、最後に一言どうぞ。

多くの森を残した日本。
そのことへの感謝とその木をうまく使うシステムをつくることが大事

石出 日本中の人が「林野行政は失敗だった」とばかり言いますので、営林署の人たちが身を縮めているのですよ。

以前、営林署の方々百人ほどの前でしゃべった時に、「大成功じゃないですか」とほめてあげました。これだけ森林を残した国は日本だけなんですね。それも、税金を使って。ただ、日本の森は残したんですが、そのために世界中の環境を破壊してきたわけです。

私は彼らに、森を残してくれたことに感謝しますと言いました。しかしこれからは、外国の木を使わず、日本の木を使って、そして植えるという資源のリサイクルをやりましょう。そういうことを、林野にかかわる皆さんがもっと声を大にして言いましょう。

もう一っ聞いてみました。「ここ何年かの間で家を建てた人は」と聞いて、手を挙げてもらいました。そして、「地元の北海道の木材を使って家を建てましたか」と尋ねました。そうしますと、「どこに買いに行ったらいいのか分からなかった」という返事です。

そのくらい流通が滅茶苦茶なんです。流通がうまくいっていないんですね。そのシステムを作ることがこれからは大事だと思うんです。国産材をどこで製材して、それを町のどこで買えるのか、きちっと明らかにする必要があります。

日本の山々は、ほとんど人工林とはいえ、70%近くの森林が残りました。これからは、それを上手に使って、さらに行きすぎた人工林を自然に戻すということをやっていけば、日本は世界に冠たる環境国になるのではないでしょうか。
「アファンの森」に行って、ニコルさんにたくさんのことを教えていただきました。ひとつは、森をどう見るかということ。自然の生態系が守られているかどうかを見なさい、ということですね。著作の中でも書いておられますが、なんで山の中に、水田に、コンクリート製の側溝があるのか。ほんのわずかな立ち上がりでも、ヘビが落ちたり、カエルが落ちたりしますと、上ってこられない、戻れないんですね。それが国有林の中にずーっとあるのです。「アファンの森」の隣にもありました。

「なんで、こんな山の中の環境のいいところで、U字溝を使っているのでしょうね」と聞きますと、「そうなの。ヘビが裕ちたりしたら、絶対上がってこれなくて、ずーっと流されていくんだよ」というお話しに、ふと、ダムを壊さなければならないと天野さんが言うことはこういうことか、と思い当たりました。

私たちは、こんなちょっとしたところから、環境について考えていけばよいのだということを教えていただきました。そして、それを今日皆さんにお伝えできたこと、そのことに幸せを感じております。
皆さま、本日はどうもありがとうございました。

天野 さあ皆さん、「人はなぜ、森へむかうのか」、そろそろおしまいの時間を迎えました。私は最初、「森へむかわなくてはならないのか」というタイトルにしようとしたのですが、いまのタイトルにいたしました。「なぜ森へむかうのか」、皆さんの心に響ましたでしょうか。

次回もまた、この法然院の場をお借りし、ゲストに作家の立松和平さんを迎えて、ご一緒に
森のことを考え、そして自分のできる”森仕事”をしていきたいと思います。

本日はどうもありがとうございました。


c.w.ニコル
茶道裏千家第16代家元

1940年、英国南ウェールズ生まれ。17歳でカナダに渡り、その後、カナダ水産調査局北極生物研究課の技官として、海洋哺乳類の調査研究に当たる。1967年より2年間、エチオピア帝国政府野生動物保護省の猟区主任管理官に就任。シミエン山岳国立公園を創設し、公園長を務める。1972年よりカナダ水産調査局淡水研究所の主任技官、また環境保護局の環境問題緊急対策官として、石油、化学薬品の流失専故などの処理に当たる。1980年、長野県に居を定め、執筆活動を続けるとともに、1984年より、森の再生活動を実践するため、荒れ果てた里山を購入。その里山を『アファンの森』と名付け再生活動を続ける。2001年、この森で の活動や調査等をより公益的な活動に全国展開するためNPO法人を設立。 1995年7月、日本国籍を取得。代表作は「勇魚(いさな)」「小さな反逆者」「c.w.ニコルの黒姫通信」など。


梶田 真章 (かじたしんしょう)
法然院貫主

1956年、京都市左京区、浄土宗大本山 黒谷金戒光明寺の塔頭、八はしでら常光院に生まれる。大阪外国語大学ドイツ語科卒業。大学入学と同時に法然院に移り修行を開始し、1984年7月、27歳で、法然院 第31代貫主に就任。翌年、境内の恵まれた環境を生かし、様々なケストスピーカーを招いて自然について考える場を持ってもらおうと「法然院森の教室」を始める。環境問題が今ほど話題になる前から始めた活動である。
また、アーティストの発表の場としても寺を開放、念佛会、佛教講座の他、 年間100以上の個展やコンサート、シンポジウム等が開かれている。現在、京都景観・まちづくりセンター評議員。京都芸術センター運営委員。きょうとNPOセンター副理事長。


天野 礼子 (あまのれいこ)
アウトドアライター

1953年、京都市生まれ。同志社大学文学部美学卒業。19歳の春に始めた釣りにのめりこみ、以来、卒論を「魚拓の美術的意義」とするに始まり、卒業後も就職をせず、国内・海外の川・湖・海を釣り歩く。開高健氏に師事し、“わが国初の女流アウトドア・ライター”の名を与えられる。「釣りだけでなくいろんなことが書ける」と開高師より推され、旅·酒·食のエッセイにも活動の場をひろげ、 開高師の監修による世界の湖への竿を持たない旅なども経験。
また1988年より、本州で唯ーダムを持たない天然河川・長良川を守る運動のリーダを務め、“日本の川のジャンヌ・ダルク’’と称される。趣味は、釣り・料理・昼寝。日本ペンクラブ環境委員。


石出 和博 (いしでかずひろ)
ハウジングオペレーション代表

1946年、北海道芦別市生まれ。北海道産業短期大学建築学科卒業。北海道アサヒビール入社、中堅青年海外派遣で渡米。米国の建築に刺激を受け、日本の伝統的建築を学ぼうと帰国後、茶室建築を手がけていた藤田工務店に入社。1971年 科学技術長官賞受賞。1989年一級建築士事務所アトリエアム(株)設立。その後、住宅、茶室、病院建築など多数の作品を発表。1996年、林野庁と道の支援を受け、道産木材活用システムハウジングオペレーション(株)設立。1997年、グッドデザイン北海道受賞。現在HOPグループ代表取締役CEO。NHK文化センター札幌教室「住まい塾」塾長。産業クラスター創造事業アドバイザー。

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