第一回”森の教室”in法然院
パネルディスカッション
木の国を生かすために、今
千宗室・梶田真章・石出和博・天野礼子

天野 私は川のことをずっとやってまいりました。でも、川に連なっている海や森のことも気に掛かっていました。昨年、石出さんとの出会いがあり、梶田貫主にお願いして、今日のこのような「森の教室」の開催に至りました。

まず最初に、梶田さんからお話しの口火を切っていただきたいと思います。梶田さんは、1984年、27歳で貫主になられ、その翌年から「法然院森の教室」をずっと続けてこられています。私はその活動を、木の国であるニッポンの森と、その木の国の民である私たち日本人の間をつなぐ働きではないかと思います。まず、その辺りのことから、お話しをしていただきましょう。

周りの環境とのそれを、知恵として生かしていく

梶田 19年前から法然院を預かっております梶田真章と申します。「森の教室」というのを85年から始めました。どうしてかと申しますと、このお寺という場をどう生かしていくかということを考えまして、こういう場所ですから当然、周りのいのちとわれわれのつきあいを学ぶということがいいんじゃないかと。

先ほどの基調講演で千君も言っていましたが、私も「自然」という言葉を何気なく使っていました。最近は「自然」という言葉を使うのをやめております。といいますか、「自然との共生」という言菓を使うのをやめましょう、というのが私の主張です。先ほど、彼が言ったことですね。

つまり、自然というのが周りにあると、こうずっと思い続けてきた結果、私たちの内側の自然、いわゆる「心」というものが病んできまして、こんな日本になったのではないかと、私はそう現状を認識しているわけです。ですから、自然は人間の周りにあって、その自然とあらためて共生していく、そんな傲慢な考え方はやめまして、自然の中で生かされている存在として、この与えられた中でどう暮らしていくかということを、もう一度真剣に考える時期ではないかと、こう考えています。

それと、それぞれの分野で、それぞれが持っておられる知識をいかに生かしていくかということですね。
そのひとつのあり方として、19年前から「森の教室」というのがあったということです。

当時は、このような活動が少なかったからでしょうが、大変関心を呼びまして、さまざまなことを行ってきました。今は、京都の町中でも、周辺でも、いろんなところで、周りの環境とのつきあいを学ぶということができる時代になりました。けれども、ただ知識を吸収しましても、それを知恵として生かしていくのは難しいなあと思っております。

そんななかで、HOPさんが、知恵として、この木の国をどう生かしていくかということを考え、実践しておられるということはすばらしいことだと共感しまして、今日の連びになったということです。

細かい活動につきましては、いちいち申し上げることもないと思いますので、もしか興味がございましたら、下に「法然院森のセンター」というのを建てて、そこで活動しておりますので、そこを覗いていただければと思います。

天野 次は石出さんにお話しいただきます。

石出さんは、北海道だけに限らず、国内産の材を使って家を建てておられます。家を建てるという言葉を、「森を建てる」と言い換えて会社のモットーにされていますが、日本の森を元気にするために、建築家としてどのようなことを目指してこられたのか、そのあたりのことをお話しください。

なぜ日本の木を使わないのか、「森を建てよう」に

石出 私は30年前、建築のデザインをするために藤田工務店に弟子入りをいたしました。その会社は、北海道ではお茶室の建築を一番多く手がけているようなところでして、大工さんの技術を磨かせるために、あの奈良の薬師寺修復の棟梁をつとめられた西岡常一さんのところへ、北海道から大工さんを送りこんだような会社でもあります。

そういうところで修行しながら、木の勉強をして、隣にお家元がいらっしゃるのであまり大きなことは言えませんが、北海道で茶室建築をやってまいりました。で、独立しまして建築デザインの会社を始めたわけです。

その後、北海道の人工林間伐材を使って建築をしようと考え、いまの会社を立ち上げてまいりました。なぜかと申しますと、その当時、ちょうど十年ほど前になりますか、北海道ではいろんなことが、たとえば拓銀がなくなったり、北海道の基幹産業である森林事業がつぶれていったりというようなことが次々と起こりました。

私は芦別という、炭坑と林業の町で育ちました。その林業をやっている同級生たちが大変苦しんでいるのを見まして、「どうして」という疑間をまず抱いたわけです。当時日本で、年間180万戸も家が建てられていたのに、なぜ苦しいのだろうと思ったわけです。それは、なぜ日本の木が使われないのだ、という北悔道という、森林が面積の七割を占めているところでさえ、住宅建築の90%が外国材なんです。京都でも80%ですね。とにかく、日本の材料を使わないという、そんな状況になっていまして、この京都でも例外ではないのです。もちろん、日本全国がそうなっています。

で、北海道ですが、私が子供のころは、まだ石炭産業が盛んでして、炭坑の坑木に使うために大量に植樹をしたわけです。トドマツとかカラマツとか、戦前戦後を通じて。ところが、炭坑がなくなって、その大量に植えられた人工林が、ただの一本も使われないということになったのです。

なぜその木が使われないのか、という私の疑問から始まったわけなのですが、木の性質とか技術的なところがあってなかなか進まない。そこで、とにかく木の乾燥技術を確立しようと考えまして、大学の先生方、建築関連の皆さん、林業の方々、そしてお客さんと一緒になって協議会を作りました。それが進化しまして、6年前にハウジングオペレーション株式会社を設立するに至ったというわけです。

そういったことで、北海道の間伐材を中心に、全国の国産材だけを使って建築をしております。間伐材と言いましても、植えてから40年も50年も経っておりますから、ほとんどが、直径25cmとか30cmの木に成長しています。そして、使ったら植えています。今年も植樹をしましたけれど、今まで一万本以上の木を植えてきました。

私どもが家を建てさせていただいたお客さんも一緒になって、木を植えているのです。まだ小さな輪でしかありませんが、同士が集まって「国産の木を使う」ことで、日本の自然を守ろう、よその国の木を大量に輸入するのは止めようという動きが、ようやく始まったというところです。

天野 この「市民事業」という私の本の中で、石出さんを紹介しました。この中で私は、森から見えるニッポンの再生、という一文を書いています。

日本の森は、必要な間伐がされていません。それは間伐する費用が高いからだと聞かされてきました。また、外材のほうが安いといわれていますが、そんな中で頑張っておられるのが石出さんです。

では次に、千さんと呼ばせていただきますが、お二人のお話をお聞きになられて、何か感じられたことなどお話しいただけますか。

自分一代で生きているのではない次代に何を伝えるのかが大事

 私のところも古い建物が多くて。大体100年に一度くらいは修復をする必要があるのです。一番古い建物は、桃山時代ですか。新しいところで60年か、70年だと思いますが。その中に、お茶の式場として使っている一部屋、そういう広間があります。この広間の床柱が、松の古木を使ったものです。

その松は、八代目の家元が大徳寺に植えたものです。木は土地を選びますし、もちろん土地も木を選びます。そういうなかで、その松も、そう長い間はもたなくて、ある程度の大きさになってそろそろ寿命がきました。その時たまたま、ちょうど修復の時にあたり、三代あとの家元の時代に、その木を床柱として使わせていただきました。

では、なぜその松を大徳寺に植えたのか。今のように植木屋さんがたくさんいるという便利な時代ではありませんから、冬の敷き松葉を採るための松として植えたわけです。家元のほうの土地も広さに限りがありますし、子孫のことを考えて植えたわけです。松が大きくなって、しばらくの間は、そこで採れた松業を敷き松葉として使っていたとのことです。

ですから今、石出さんがおっしゃられた、自分たちが伐った木をまた補充していこうという考え方は、非常にすばらしいことですね。誰もが、自分一代で生きているというのではなくて、自分が出会うことがまずないであろう、その自分が命を渡していく人たちのために何かを残していく。財産だとか、そういうものではなくて。

八代目の家元が残してくれた、その松の床柱がいまもしっかり、ちょうど私が座る真うしろにありますが、なにか支えてくれているような気がします。私の家では、その柱を「代々柱」と申しまして、家元がそこに座って稽古をつけるならわしになっています。私も今年からそこに座らせていただいていますが、ちょうど背中がすれるあたりの色が変わっています。

十一代目の家元のときにその床柱を据えましたから、わたしで六代ということになります。そこで代々、何となく背中にご先祖のぬくもりを感じながら教えることができてきたのではないかと思っております。

そういった意味で、もうすでに結論を申し上げてしまったような格好ですが、あとの人に対してやさしい思いやりを持つこと、それは次の代へのプレゼントという意味で、非常に大切なことだと思います。

私たち日本人は、こういった心から心へ伝えていくようなことを、この島国の中でずっと続けてきたのですから、「森をたてる」というような運動が、これからも生活習恨のように、親から子へ、子から孫へ伝わって残っていけば、またそういった中で、いろいろ教えていけるようなことがあったらいいんじゃないかと思います。

天野 どうもありがとうございました。千さんも、梶田さんも「自然との共生」という言菓は、好きじゃないんだとおっしゃいました。実は、私も思い始めていたところなんです。私たちは、自然のことをどれだけ知っているのだろう。何か知ってるふりをしているだけなのではないのでしょうか。

たとえば、こういうことがあります。カナダの森を研究している学者がいるのですが、サケと森の関係を調べていまして、つい最近、新しい発見をしました。川に産卵に帰ってきたサケは、クマの大切なご馳走だ、という話はご存じですね。一匹のクマが、シーズン中約700匹のサケを食べるそうです。話はそこからなんですが、川に大きな滝がありますと、サケはそこから上流へは行けません。そこで、サケがいる川のそばの木と、サケのいない川のそばに生えている木を比べました。そうしますと、サケのいるほうの木は、約二倍半も成長が早いということが分かったのです。クマの食べ残したサケが、小動物のエサとなり、さらには森の栄養分になっていたのです。その森の木には、ふつう陸地では見られない窒素15、N15ですね、それが見つかっています。これは海にしかないはずの窒素なのです。

産卵のために川をさかのほったサケは、海の養分を森に届けていたということです。私たちは、科学者の発見を聞いて、こうして初めて知るわけですが、ひょっとしたらカナダのイヌイットや日本のアイヌの方は、体験的に知っていたのではないかと思います。

そんなこともありまして、私も自然に対して、私たち人間は「ちょっとしたことを知っているだけ」と考えるようになりました。

では、梶田さん、もう少しお話しいただけますか。

布施というのは、見返りを求めず周りの存在に対して返していくこと

梶田 今、我々は、何かをすることに対して、見返りをほしいと思いすぎて生きているのですね。だけど、生きているというのは、もらっていることなので、あとは返していくだけなんです。ということに、あらためて気がつく必要があると思います。

仏教では、布施というんですが、今の人はすぐに、布施したら何か返ってくるのとか、布施したらどういういいことがあるのか、という話になります。そうではなくて、布施するということは、もうもらっていますから、できることでお返ししましょうということです。何か周りの存在に対して返していく、それが布施するということです。

いま生きているということは、もらいすぎているのです。日本人はいっぱいもらいすぎて、あふれかえって、その中でどう生きていったらよいのか分からないんですね。情報もあふれていて。でも、情報はあふれているけれど、それが知恵とならないという、本当に悲しい国に生きていると思うのですが。まあ、そう大層に考えなくても、できることで返していきましょうと。そういう意識をみんなが持つということですね。そのためには、千君も言ったように覚悟が要りますね。

今までの生活を続けていったのではだめじゃないかと、みんな思っているのですね。たぶん、これから生きていくということは、物質的にも精神的にもしんどくなるような気がします。そこで、物質的には少し足りなくなってきましても、精神的にはいかに豊かに生きていけるかということが大事だと思うのです。その時の発想としましては、先ほど言ったように、それぞれが返していく、ということに尽きるのではないかと思っています。でも、難しいことですね。

石出 お二人の「宗教家」のお話しを聞きながら、どちらに入門しようかと考えておりました(笑)。

私は、もう少し、国産材を使うというお話しをしたいのですが…。

梶田 あっ、そのことで今思い出したことがあります。

「森の教室」を始めた頃ですが、東南アジアの、フィリピンとかタイの方が日本へ来られて、いちばん驚かれるのは、日本では木がなくなったから、ウチに来て木を伐っているのだと思っていたと。でも、日本へ来てみたら、山は木であふれていて。なぜこんなにたくさんあるのに、東南アジアの国々で木を伐って帰るのか、それが不思議だ。というのを15年以上前に聞きまして、それからこれはおかしいぞ、というふうに思っていましたら、石川さんが出てこられた、ということです。

住宅建築の合理化という名の下に腕のいい職人と日本の森が廃れた

石出 北海道の森林保有率は70%ありますから、世界一なんです。全国平均いたします68%くらいで、ノルウェーに次いで二位ですが。

こんなに木がいっばいあるのに、その木をさっぱり生かしていません。外国から木を持ってきて、加工して使っているのです。どうしてでしょう。外国の材料が安いからなんです。

どのくらい安いとお思いですか。ふつう10%ほど安いのです。では、なぜ私たちは高い国産の木を使うことができるのでしょう。志の高いお客さんを選んでいるからか。そうではありません。

一軒の家に使う木材の価格はといいますと、総額の約10%です。ですから、木材価格が10%高くても、一軒分の総額では1%から、せいぜい1.5%しか高くならないんです。それでも、ハウスメーカーでは、合理化と称して安い木材を使っているのです。でも、一軒の住宅で、35〜40%の営業費と広告宜伝費を使っているのです。その宣伝費を下げればいいのです。

もうひとつ外国材を使う理由としては、ハウスメーカーというのは何万棟と造りますから、品質管理のためにどうしても太い木を使いたいのですね。日本の木はといいますと、植えてから50年、60年経っていましても、せいぜい30cmくらいの太さにしかなっていません。ばらつきもありますから使わないということなのです。

でも、お茶室の建築を見ましても、昔から日本人がやってきた建築というのは、そこにある木を大事に使って、先祖が植えた木とか、おじいちゃんが植えた木とかですね、家を建ててきたと思うのです。その木を使うということは、大工さんを生かすことなんです。ところがメーカーでは、全部標準工法になっていて、腕のいい大工さんは要らないようになっているのです。そういう風にしていくのが住宅の合理化だと言われています。

しかし、住宅というのは商品ではありません。住む人が自分の家をつくる、大工さんと一緒になってつくる、建築家と一緒になってつくる、というものだと思うのです。もう一度、そこに戻す必要があると考えています。腕のいい、大工さんや、左官屋さんといった職人がいなくなれば、これは大変な損失ではないかと思うのです。

京都のようなすばらしい場所で、住宅の70%以上がハウスメーカーの家です。これはちょっとどうかと思います。家というのは、一棟一棟、自分の丈にあった、そして、子供のため、孫のためにつくっていくというのが正しいのではないでしょうか。

今は外国材を使っているハウスメーカーが、国産材を使うようになれば、森が活気づきますし、またそうなってほしいと願っています。

自分たちの身の回りのことは人に任さず、自分たちでしよう

 先ほど梶田君が布施の話をされていましたが、臨済和尚という方の言業で「外に求むるなかれ、求むるものあればすべて苦なり」というものがあります。今それを思い出しました。

これは、見返りを求めるなということです。なにも、外に助けを求めるな、孤立しろということではなくて、依頼心というものが出過ぎますと、今度はそれでけつまずく。
また、何かを人に頼んで、何かをいただけたとしても、その量に対して、いずれ不平不満が出てくるということでしょう。このことが先ほどの布施とつながるかどうか分かりませんが、たぶん同じような意味だと思うのです。

今、私たち誰もが、何かお互いに見返りを求めすぎて生きているのではないでしょうか。

たとえば、自然保護運動。この言葉を使えば、それなりの評価が返ってくるのではないか、とか。森なら森を助けようと、ただそれだけの気持ちで純粋にやっているかもしれませんが、そうでない人もいるかもしれません。「COP3」もそう、「水フォーラム」もそうですけど、いろいろ関わらせていただいた中で、これはたとえば宜言文をつくるだけの会議じゃないかとか思うことがありますね。

社会にPRしていく、それは非常に大切なことです。私たちがかかえている問題を気づかせてもらうという意味では大切なんですけれど。言ってみると、ドアを開けて、部屋の中が見えるようになり、部屋を覗いて、そのたたずまいを感じて、もう一度ドアを閉める、それでおしまい。そのようなことが多いのかもしれません。

今だったら「まねき」が上がっていますね、南座のところに。南座の前を通って、まねきの勘亭流の文字を見て、そしてポスターを見て、演目を見て、それでもう歌舞伎を見たつもりになっているようなものではないでしょうか。

また、何でもかんでも外国から持ってきて、それを扱っていたら、国際交流も、ひいては外交もうまくいっているようなこと、それも錯覚だと思いますね。とにかく、自分たちの身の回りでできることは自分たちでしようと。人に任すんじゃないと。

今日できることは、今日しようという気持ちは、絶対必要だと思います。私ども裏千家今日庵の、今日庵という言業の発祥は、それは今日のことは先延ばしにしないというところからきています。目の前にあることに自分がしっかりふれ合ってみなさいと。自分の目で見て、自分の手で触り、自分の耳で聞き、自分の心で感じなさい、というところから今日庵という言葉が生まれました。

天野 どうもありがとうございました。

近年は、私たち人類が、生かされている地球のために、足元の生活の場で何ができるかが間われる時代になっています。
特に”木の国"であるわが日本では、この2年あまり、全国の知事さんたちが国に要求をして、「緑の雇用」という施策も採られるようになりました。日本中の山を元気にするために、間伐をしっかりできる体制を作ろうというように政府の方針が変わりました。たいへんうれしいことだと思っています。

私自身は、本日ご参加の千さんや梶田さん、そして次回以降のゲストである、立松和平さん、C.W・ニコルさん、筑紫哲也さんのようなオピニオンリーダーと、石出さんのような森の仕事にかかわる実業家たち、そして「緑の雇用」を政府に求められたような森の大切さを知っている知事たちに、”グリーン同盟“という三角形のトライアングルを作りましょうと提案しています。

このトライアングルが発信体となって、日本中の人が「木の国」のこれからを考え、行動してくれるようになったらいいなと思うのです。
では最後に、一言ずつお言莱をいただきたいと思います。それでは石出さんからお願いします。

石出 何といいますか「ご縁」とでもいうのでしょうか、今日こうして皆さんとお目にかかれたこと、大変うれしく思っています。できれば私は、客席のほうで話を聞きたかった、今日は来た甲斐があった、というのが正直な感想です。皆さん、どうもありがとうございました。

まず自分が実践することが大事 人を育てることで、自分が育つ

 やはり法然院というのは、いい場所だと思いました。昔何度か写真を撮りに来たことがありました。その時に、一般の参拝の方に高校の同級生である梶川貰主が法話をされているのを、実はあちらの縁側のところに座って聞いていたことがありました。私もどちらかといいますと、貫主の話をゆっくり聞きたいなという気持ちです。

私の祖父は、北海道で急逝したのですが、その祖父が私の父にずっと言ってきたのは、「こういう茶道の宗家の宝は人だよ」と。人を育てることは、自分が育つことになるし、また人を育てようと努力するならば、自分がその人を指導できるだけの人間になっていかなければならない、ということでした。

あまり、おこがましいことは申せませんが、私は講演にしましても何にしましても、自分に言い聞かすつもりで話しをしています。家元を継承するとき、あんなに大騒ぎになるとは思いませんでしたが、その時にひとつだけ、自分のテーマとして申し上げたことがあります。Practice what you preach.「あなたが実践したいと思うことを、まずあなたが自分で実践しなさい」ということです。言うことは簡単ですけれど、言ったことを守らないという人間が多くなってまいりましたが、私は、自分が伝えたいことを、まず自分で実践しようと思っています。

ですから、いろいろな場所で皆さん方にお話しできるようなこと、続けて今日までやってまいりましたが、今日は本当にいい勉強をさせていただきました。

梶田 今日は、何かを持っていることを楽しむのではなくて、人と喜び合えるという集いではなかったかと感じました。こういう楽しみ方が増えてまいりましたら、日本も変わっていくのかなという気がいたします。

日本人は「道」という言葉が好きな国民性だと思っています。私個人はあまり好きではなく、茶道よりは茶の湯という方が好きなのですが、それはそれとしまして、今日は皆さまと共に、あらたな道、森の道ですね、まあ「森道(しんどう)」と申しましょうか(笑)、そんな道ができていくのかなあと思いながら、楽しく過ごさせていただきました。

どうか、何かひとつ、皆さまの周りで行動に移していただければ幸いだと思っております。ありがとうございました。

天野 千さんが先ほど、「人だよ」とおっしゃいました。その人のネットワクを「森」で作っていこうというのが、今日の第一回HOP”森の教室“でございます。

先月、私は石出さんたちと一緒に、北海道で植樹をいたしました。そこに参加された方は、およそ60名ほどでしたが、そのほとんどの皆さんが石出さんのところで家を建てられた方なんです。石出さんは、そういう方々とのネットワークを大切になさっています。

私たちは、そういうネットワークを支持し、またこの法然院で、皆さまとご一緒にこれからも、森のことを考え、できることから行動に移していくネットワークを重ねていきたいと思います。今日はどうもありがとうございました。

左から、天野礼子・梶田真章・千宗室・石出和博

千 宗室 (せんそうしつ)
茶道裏千家第16代家元

1956年、京都市生まれ。同志社大学卒業。大徳寺管長、 僧堂師家・中村祖順老師の下で参禅得度、斎号・坐忘斎を授く。その後、妙心寺・盛永宗興老師の下で参禅。現在、臨済宗妙心寺派虚心庵住職。2002年12月22日、鵬雲斎宗室の後を継ぎ、第16代家元となり今日庵庵主として宗室を襲名。
(財)今日庵理事長、(社)茶道裏千家淡交会名誉会長、学校法人裏千家学園茶道専門学校理事長・校長として茶道人の育成に努めている。京都造形芸術大学歴史遺産学部教授、中国・南開大学客員教授、北京外国語大学客員教授など幅広く教育分野に携わる。現在、日本感情心理学会理事、在京都イタリア名誉総領事、京都芸術センター館長、(財)京都府国際センター理事など公職多数。


梶田 真章 (かじたしんしょう)
法然院貫主

1956年 、京都市左京区、浄土宗大本山 黒谷金戒光明寺の塔頭、八はしでら常光院に生まれる。大阪外国語大学ドイツ語科卒業。大学入学と同時に法然院に移り修行を開始し、1984年7月、27歳で、法然院 第31代貫主に就任。翌年、境内の恵まれた環境を生かし、様々なケストスピーカーを招いて自然について考える場を持ってもらおうと「法然院森の教室」を始める。環境問題が今ほど話題になる前から始めた活動である。
また、アーティストの発表の場としても寺を開放、念佛会、佛教講座の他、 年間100以上の個展やコンサート、シンポジウム等が開かれている。現在、京都景観・まちづくりセンター評議員。京都芸術センター運営委員。きょうとNPOセンター副理事長。


天野 礼子 (あまのれいこ)
アウトドアライター

1953年、京都市生まれ。同志社大学文学部美学卒業。19歳の春に始めた釣りにのめりこみ、以来、卒論を「魚拓の美術的意義」とするに始まり、卒業後も就職をせず、国内・海外の川・湖・海を釣り歩く。開高健氏に師事し、“わが国初の女流アウトドア・ライター”の名を与えられる。「釣りだけでなくいろんなことが書ける」と開高師より推され、旅·酒·食のエッセイにも活動の場をひろげ、 開高師の監修による世界の湖への竿を持たない旅なども経験。
また1988年より、本州で唯ーダムを持たない天然河川・長良川を守る運動のリーダを務め、“日本の川のジャンヌ・ダルク’’と称される。趣味は、釣り・料理・昼寝。日本ペンクラブ環境委員。


石出 和博 (いしでかずひろ)
ハウジングオペレーション代表

1946年、北海道芦別市生まれ。北海道産業短期大学建築学科卒業。北海道アサヒビール入社、中堅青年海外派遣で渡米。米国の建築に刺激を受け、日本の伝統的建築を学ぼうと帰国後、茶室建築を手がけていた藤田工務店に入社。1971年 科学技術長官賞受賞。1989年一級建築士事務所アトリエアム(株)設立。その後、住宅、茶室、病院建築など多数の作品を発表。1996年、林野庁と道の支援を受け、道産木材活用システムハウジングオペレーション(株)設立。1997年、グッドデザイン北海道受賞。現在HOPグループ代表取締役CEO。NHK文化センター札幌教室「住まい塾」塾長。産業クラスター創造事業アドバイザー。

Page top