青山流儀 西岡常一さんと出会い職人の大切さを知る。
建築家 石出和博

本物は古くならずに深くなる。

そんなことしたらヒノキが泣きよります…。

これは斑鳩の宮大工・故西岡常一氏の言葉てす。西岡氏は、法隆寺の宮大工で奈良薬師寺の西塔や法隆寺の三重の塔の再建などを手がけ、近代建築工学の立場で設計された建築学者たちの設計図と施工計画に対して、宮大工の経験とカンと心情とでその工法に反対し、テコでも動くまいとする工匠(たくみ)の思いをつらぬき通して、数々の塔の再建を果たした方なのてす。

故 西岡常一棟梁(薬師寺西塔の前にて)
写真提供 読売新聞社

わが国最古の木造建築・法隆寺、それは、とりもなおさず世界一美しい最古の現存建築物という事になります。塔組みをいかに末永く一千年という時間に耐えさせるか、木の心を知りをれを生かす事、現代にその伝統を受け継ぎ、次の世代に引き継ぐために、西岡氏は木のいのちを自分のいのちとし自らの掌に孔をあけられるのを拒むように、木の補強のために鉄骨を通す穴をヒノキの部材にあけることを拒否しつづけました。

鉄のサビが木をだめにし、木を殺してしまうからてす。その情熱、それは一宮大工の思いというより日本人の心ともいうべき、木の文化に対する強い使命感によるものだと私は思うのてす。西岡氏は『木の心』という著書の中で、「ヒノキにはヒノキのいのちがある、鉄よりもコンクリートよりも、永いいのちがありますのや…。」と言っています。

私は二十年ほど前、西岡氏の本に深く感動し、どうしてもお会いしたいと思いつづけていました。

京都や奈良へはよく写真を撮りにでかけていましたから薬師寺の西塔の再建の事などはよく知っていました。

秋も深まった十一月の奈良、その日はとても寒い日でした。薬師寺の境内に着いたのが、ちょうどお昼を回ったころで、ぐるりと境内をひとまわりして工事中の作業場に行ってみました。

国宝 薬師寺東塔 断面図・立面図/大森健司氏提供資料より

昼休みの為だれもいない工事現場、その反対側にプレハブの現場事務所が見えました。西岡氏の住所だけでも聞いてお住まいのある斑鳩の里へ足を向けるのも悪くないと思っていました。

「すみませんが、西岡常一先生はどこに…」頭を上げふりかえった、その人がご本人だったのてす。そこには一人で筆を持ち、墨で原寸図かなにかを書かれている姿がありました。

にこにことなんとも穏やか、それでいて意志の強いお顔だち。その当時西岡氏は七十才くらいだったと思いますが、どう見ても六十才くらいにしか見えないほど、いきいきとされていました。この出会いがその後の私の建築に対する姿勢と考え方を大きく変えたのです。

突然訪ねてきた無礼を詫び、「北海道には文化が無いからこちらに来てそれを勉強しているのです。西岡さんの本に感動し、どうしても一目お会いしたいと思い、まいりました。ほんとうにお会いできるとは思っておりませんでした。」私は一生懸命説明しつづけました。西岡氏は忙しい手を休めお付き合いをしてくれました。

「あなたが今造っているものが、五十年もたったらその町の文化になる。そういうものを造らなければいけない。お金をかけることよりも、本物の素材をうまく生かせば美しいものは造れる。美しいものはかならず残ります。古いから美しいのではなくて、古くなっても美しいものはやっぱり本物なのです。あなたは設計をやっているというが、図面を書くことだけを考えるのではなく、職人さんと一緒になって、建物にいのちをふきこまなければいけない。そういう責任感をもって建築をやらなければならない」。

西岡氏のやさしく、そしてきびしい言葉。千年の歴史を相手にして仕事をしている人のお話には重い重い気迫と信念がありました。目からウロコが落ちるとはこのことだと思います。学校で少々建築の勉強をして、設計をはじめると、もう先生になった顔をして職人さんにあたり、自分だけが特別のものを作っているような顔をして、失敗は人のせいにする。どうしてわからないかと建築主をうらみ、目立つものを作ろうと街並をくずしていく…。西岡氏は時間をさいて現場を案内してくれました。

いま私達の回りの建築物を見るとき、合理化と称して機能を優先した工場製品が氾濫し、それを使った建て売り住宅や住宅団地が無国籍文化としてどんどん作られています。

たしかに新しいからきれいな住宅だとしても、薄っぺらい偽物で作られたそれらを見るとき心の中を寒々とした風が通りすぎるのは私だけでしょうか。建築家の責任において日本の文化となりえるものをめざし、もっとも日本的なものがもっとも国際的なものであるという強い自信と信念をもって、新しい建築文化を造ることを私は西岡常一棟梁に心の中て誓っているのです。

西岡氏は建築家に与えられる最高の名誉、日本建築学会賞を受賞され、また吉川英治文化賞も受賞されております。まさに宮大工の棟梁という立場を超えて日本を代表する文化人にふさわしい方でした。

その後、我が社に籍をおいていた大工さん達を弟子入りさせていただきました。彼らが学んだ素晴らしい心を私たちは、いま大切に受け継いているのてす。

宮大工棟梁西 岡 常 一

1908年(明治41年)- 1995年(平成7年)。奈良県出身。明治から三代続く、宮大工棟梁。34年から開始された法隆寺「昭和の大修理」をはじめ、法輪寺三重塔、薬師寺金堂や西塔などの復原に取り組む。途絶えていた「ヤリガンナ」などの道具を復活し、飛鳥時代から受け継がれていた寺院建築の技術を後世に伝えたことから、「最後の宮大工」と称された。74年に吉川英治文化賞、77年には「現代の名工」として労働大臣賞、92年には宮大工として初めて文化功労者に選ばれた。地元・奈良斑鳩町名誉町民。著書に『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』、『宮大工棟梁・西岡常一 「口伝」の重み』、『木のいのち 木のこころ(共著)』他。

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