
陶芸と建築の深遠 清⽔六兵衞×⽯出和博
幻冬舎「美しい日本の邸宅2」より
美しき二つの融和
陶芸と建築の深遠

京焼の陶工、八代目清水六兵衞氏との出会いは16年前にさかのぼる。茶道の専門雑誌に声を掛けられ、対談する機会をいただいたのだ。
場所は京都・高台寺の「鬼瓦席」。灰屋紹益の好み、江戸時代前期の作で、簡素な木を適材適所で用いているところに共感を覚えた。清水氏も同様に空間の心地よさを感じていたようだった。それもそのはず。清水氏は大学で建築を学び、陶芸の道に進んでいるのだ。
私自身もこれまで多くの茶室を手掛けてきた。座ったときの窓の位置や、駆込天井の高さ、土や木、和紙といった自然素材の質感とその寸法……。細部にまで美意識が感じられる空間で、江戸期の京焼と茶室について心ゆくまで語り合ったのを、昨日のことのように覚えている。
もともと焼きものは好きではあったが、氏との対談以来、京焼につい目がいく。野々村仁清の優美でふくよかなラインがある一方で、尾形乾山のような大胆さを持ち合わせる。
京焼とはいったいなんなのか――。
見れば見るほど、知れば知るほど、分からなくなる。そのくらい奥が深い。
江戸時代初期、茶の湯の流行を背景に、東山山麓地域を中心に興隆した京焼。優れた陶工たちが登場し、初代清水六兵衞氏もその一人だった。
当代の八代目は歴代のどの作風とも異なる。なぜなら非常に建築的、構築的なのである。
製作した図面に合わせて正確に土の板を切り、統合させ、器体にスリットを入れて強度を操作する。構築的な一方で、土がもつ素材感、焼成の歪みなど、焼きものらしさを呈する。歳を経てますます磨きがかかり、空間と融和する作品を次々に発表している。
建築のなかで作品をどう美しく見せるか。あるいは、建築を美しく見せるために、どのような作品であるべきか―。その創作における思考を改めて語り合いたい。
陶芸と建築という違いはあれど、同じように日本の美を追い求めている者同士。16年という時間は、どのように美意識を深めてくれたのだろうか。
対談が叶い、今再び京都へ。静謐な空気が流れる高台寺の茶室「湖月庵」。まさに今回の舞台にふさわしい。
なぜ大学で陶芸ではなく、建築を学んだのか
石出和博(以下、石出) 以前の対談は16年も前のことですが、清水先生はお変わりありませんね。
清水六兵衞(以下、清水) 石出さんも本当にお変わりなく。前回は高台寺の「鬼瓦席」でしたが、今回は「湖月庵」で、こちらもすばらしい空間ですね。
石出 やはり清水さんは大学で建築を学ばれていたから、空間をよく見ていらっしゃいますね。まずお聞きしたかったのですが、なぜ大学で建築に進まれたのですか? 陶芸をするために建築を選んだのか、そうでないのか。その理由が気になっていました。

清水 正直なところ、親に継ぐようにと言われたことはあまりなく、実のところ、学生の頃はまったく陶芸のことは頭にありませんでした。六代目の祖父は日本画を学んでから陶芸の世界に入りました。私の父である七代目は養子で、名古屋の生まれ。名古屋高等工業学校の建築科を卒業後、東京藝術大学で鋳金を学んでから、陶芸の道に進みました。40歳を前にして「九兵衞」と名乗り、アルミニウムを主な素材に用いて彫刻家として活躍したのです。そのような背景もあり、父は私が大学で建築を学ぶことについて反対することはなく、割と自由にさせてくれました。私は小さい頃から定規やコンパスで図面を描くのが好きだったので、自然と建築の道を選んだような気がします。大学時代に使っていたドラフターを今も使っています。もしも建築を学んでなかったら、今のような作品は生まれなかったと思います。
石出 清水さんの作品は、非常に建築的だと感じておりました。先ほどドラフターを使うとおっしゃってましたが、形をつくる前に図面を描かれるのですか?
清水 まずは簡単にイラストを描き、そこから原寸の立面図を描いていきます。私にとっては図面で描いたほうが細かな調整ができ、バランスも取りやすいのです。
石出 図面を作成してから立体にしていくのは建築も同じですね。図面どおりにつくっていくのですか?それとも修正していくのですか?
清水 まず基本形は図面どおりにつくります。私の技法は「たたら成形」というのですが、最初はただの立方体や直方体です。そこから一部を切り離し、切り取った部分に別のパーツを合わせていくのです。別のパーツは図面で描いた後に型紙をつくり、板状に伸ばした粘土から型紙を使ってパーツを切り取ります。
石出 建築模型をつくるのと似ていますね。
清水 まさにそのとおりです。それを土に置き替えたような感じです。私の作品の場合は、側面を貼り付けていくので、内部に支えのようなものが必要で、完成したら支えを取り除きます。建築を学んだからこそのアプローチだと思っています。

京焼の多様さ、歴代で異なる作風
石出 先ほど歴代六兵衞ギャラリーを拝見させていただきましたが、京焼は非常にさまざまな釉薬の色やデザイン、技法があり驚きました。ほかの焼きものですと、土や技法がその産地の特徴になっていると思いますが、京焼はいかがですか?
清水 確かにほかの産地はそうかもしれません。京焼は「特徴がないことが特徴」とでもいいますか、さまざまな産地から原料をもってきて、京都で完成させていくつくり方なのです。なぜそのようなつくり方になったかというと、京都が産地だけじゃなく、消費地だからです。昔から公家やお寺などから注文を受けてつくってきた歴史があり、その結果多種多様な色やデザイン、技法が生まれたのです。
石出 なるほど。京都が最大の消費地だったと。
清水 さまざまなニーズに応えていくなかで幅が広がっていったのだと思います。それは陶芸だけに限らず、染色や織物、漆なども同じだったと思います。
石出 ギャラリーで初代から当代の清水さんまでずらりと並ぶ作品には圧倒されました。しかも、歴代で驚くほどに作風が異なりますね。作風をがらりと変えるのは勇気がいることではないですか?
清水 六兵衞窯は「先代と同じことをするな」という家風があり、作風を引き継ぎません。代々作風を継承していくことも非常にすばらしいことだとは思うのですが、先代より良いものをつくる、あるいはブラッシュアップしていくというのは苦労もあると思うのです。六兵衞窯は、がらっと作風を変えるので、何をつくろうか、というところから始まる。案外、気が楽かもしれません。創業から約250 年間、常にその時代その時代の変化とニーズを察知してつくってきたので、自ずと新しいもの、時代の先端をいくものをつくれたのだと思います。また、初代から画家や文化人と交流があり、さまざまにコラボレーションもしてきたので、それも原動力の一つになっていると思います。一見ばらばらに見えますが、それぞれの作品からその時代の空気が感じられます。
石出 清水さんは大きな作品も多く手掛けられていますね。モジュールを一つひとつつくり、それをブロックのように組み立てていく作品は非常に建築的で、力強さを感じました。これらの作品の場合は、どのような場所に置かれることをイメージして制作しているのですか?

清水 大きな作品は、「パビリオンのようですね」とよく言われます。ギャラリーなどで展示される場合は、前もって天井高や床の素材などを確認しており、やはり場を意識してつくっていますね。大きな作品の際には、オパールラスター釉を使ったものもありますが、この釉薬は鏡面のように映り込むのです。人が近づくと人の影が映り込み、周囲の空間を反映する。人と作品、作品と空間の交流をイメージしてつくりました。
石出 陶芸とは思えないほど、エッジのラインがはっきりと出ていますね。
清水 これはたたら成形の技法もありますが、吹き付けた釉薬が高温で溶け、エッジの部分の釉薬が動いて生地が表に出てくるからです。
石出 何がきっかけでブロックのように組み立てていく方法を思いつかれたのですか?
清水 現在は市内で登窯は使えませんから、電気窯に入るサイズのものしか焼けません。ギャラリーのインスタレーションの場合はある程度の大きさが必要なので、大きくする方法としてパーツを組み立てる方法にたどり着きました。
石出 それもやはり建築を学ばれていたからこそのアプローチですね。
清水 ブロックのように組み立てていくには精度が必要になります。現在の電気窯はコンピュータで温度を微調整できますが、以前は手動で温度のグラフをつけながら焼き、同じように温度を上げていくことで、ある程度精度をそろえることをしていました。技術の進歩があったからこそ、できた作品だともいえます。

陶芸の焼成からヒントを得た、カラマツの乾燥技術
石出 私は北海道のカラマツを建築に使うため、30年ほど前に乾燥技術を開発しました。それまでカラマツは曲がってしまうので建築材料には使えず、ほとんどがパルプになってしまっていました。それをどうしても100 角の柱の形状のまま乾燥したくて、北海道の林産試験場に持ち込んだのです。最初は失敗ばかりで、バリバリに割れてしまいました。陶器も急に温度を上げたら割れてしまいますよね。
清水 そうですね。
石出 そのとき偶然、知り合いの備前焼の作家の方から、陶器を焼く窯の温度のグラフをいただいたので、それを応用してみました。それでも割れるから、今度は100% の飽和蒸気の中で100 度近くまで温度を上げ、徐々に温度を下げていく方法をとったら、うまくいくのです。蒸気を入れながら温度を上げていくのが鍵でした。

清水 蒸気があるのに乾くというのは、なんだか不思議ですね。土も分厚くて水分が多いと、焼いたときに破裂してしまいます。そこで、温度を200 度弱で止め、いったん常温に戻し、それを何回か繰り返していくと中まで乾いていく。冷却のときに水分が抜けるらしいのですが、木の乾燥技術も同じだということですね。
石出 陶芸は土という天然の材料なので、木と共通点はあるのかもしれません。今では、その乾燥技術が全国で広まり、カラマツが活用されるようになりました。
本日は陶芸と建築の共通点を見いだすことができ、非常に興味深いお話をお伺いすることができました。ぜひ今度は、作品で清水さんとコラボレーションをさせていただけるとうれしいです。
清水 それはうれしいお言葉です。こちらこそ、本日はどうもありがとうございました。
京焼(清水焼)について
茶の湯の流行とともに発展した400年以上続く焼きもの
江戸時代初期頃、茶の湯の流行を背景に茶碗や茶入などの茶陶の生産が盛んになり、京都の三条大橋の粟田口で瀬戸の陶工が登窯を築いたとの言い伝えが残る。
1647年頃には野々村仁清が仁和寺の門前で御室焼を始め、この前後から洛北から洛東の寺院の領地を中心に、八坂焼、清水焼、御菩薩みぞろ焼、修学院焼、音羽焼、清閑寺焼などの窯が開かれた。清水焼は清水寺の参道界隈の五条坂でつくられていた焼きものを指し、土は清水寺が管理していた。
仁清の弟子、尾形乾山(1663-1743)は1699年に鳴滝に登窯を築き、「古清水」と呼ばれる青・緑・金の三色の色絵陶器が完成。その後、初代清水六兵衞や欽古堂亀祐などの名工が次々に登場する。
清水焼は江戸時代から引き続き流行していた煎茶道具の生産により発展を続けた。
明治には五条坂に京都市立陶磁器試験場を設立し、河井寛次郎をはじめ、東京や大阪の工業学校を卒業した技師たちが原料や釉薬などの最新の窯業技術を研究。現在の京焼の技術の基礎を確立した。
窯ごとに異なる特色をもつといわれ、色絵や染付、天目など多種多様。現在は京都で焼かれている焼きもの全般を「京焼(清水焼)」と呼んでいる。
六兵衞窯とは
1771年に初代清水六兵衞が京都・五条坂に開窯したことに始まる。初代は大阪の農家に生まれ、京都の五条坂にて海老屋清兵衞のもとで陶業を学んだ。海老屋から授けられた「きよ水」の印にちなんで「清水(きよみず)」の姓を名乗るようになる。妙法院宮眞仁法親王の命により御庭焼で黒楽茶碗をつくり、「六目」の印を授けられた。これによって眞仁法親王の文化サロンに加わり、絵師の円山応挙や松村月渓(呉春)、文人の上田秋成、村瀬栲亭と親睦を深めた。
奔放で型破りな作風の二代、富岡鐵齋と共作した四代など、開窯以来250年余り、各代の当主が各々の特質を家伝の上に活かした作品を世に送り出してきた。各時代の画家や文化人との協業も特徴である。
六代のときに会社組織として株式会社清六陶匋(現・株式会社キヨロク)を設立。現在は八代の監修のもとに、伝統的な京焼の作風を活かしつつ、食器から花器、インテリア、茶陶など現代のライフスタイルに合った製品を制作している。
八代 清水六兵衞
七代の長男として1954(昭和29)年に京都に生まれる。襲名前の名前は柾博。1979(昭和54)年に早稲田大学理工学部建築学科卒業後、京都府立陶工高等職業訓練校で轆轤、京都市工業試験場で釉薬を学び、本格的に作陶活動に入る。1983(昭和58)年の朝日陶芸展’83でグランプリを受賞。その後も数多くの公募展において受賞を重ね、1980年代から90年代にかけて陶芸表現が拡大する時代のなかで注目を集める。制作は図面にあわせて正確に土の板を切り、結合させる「たたら技法」。器体にスリットを入れることで強度を操作する、あるいは重力の力を利用するなど焼成による歪みやへたりを意図的に造形に取り入れている。2000(平成12)年に八代を襲名。以後、造形性をもった器物を中心に作品制作を展開する。2003(平成15)年に京都造形芸術大学教授となり、精力的な創作活動のかたわらで後進の指導にもあたっている。2005(平成17)年に2004年度日本陶磁協会賞を受賞するなど、現在の陶磁界を代表する一人である。
